6月 03
朝から雨が降っていて風が強い。気温も低い。少し厚着をして家を出た。6月なのに寒い。傘を差していると歩きながら足元ばかり見てしまう。比喩ではなく,普段から下を向いて歩いていることが多いけれど,雨が降っているとその頻度が上がる。紫陽花は空を仰いでいる。
関東甲信越地方は“梅雨入り”したらしい。“梅雨入り”は漢字2文字では“入梅”と書き,読みは“つゆいり”“ついり”“にゅうばい”の3パタンがある。何れも季語では“夏”。まだ夏らしさを感じることはないけれど。
話は変わるけれど,プリントゴッコの本体販売が今月で終了する。子どもの頃,年賀状を作る時に大変,御世話になった。PCとプリンタの普及によって,31年間の歴史に幕を閉じることになった。時代の流れである。当然といえば,当然。プリントゴッコ用の消耗品は当面販売を続けるとのこと(詳しくはコチラ)。
版画なんて言葉を知らない頃からプリントゴッコを使って印刷をしていた。★の家にあるプリントゴッコは黄色の本体のヤツ。かなり初期の物だと思う。何とも言えないデザインが愛らしい。製版の際に,ランプがバチンと光るのがとても好きだった。版を1枚作るのに,2つもランプを使い捨てる大胆さも,今となっては時代を感じさせる。

版画の基本はプリントゴッコから学んだ。小学校高学年になって図工の時間に木版を教わったときには,既に多色多版刷りをしていた。彫刻刀を使って木を削って,黒一色の版画を刷っても何の感動もなかったことを憶えている。何故,こんな回りくどい方法を教えるのだろうと不思議に思ったほどだ。すくなくとも“ゴッコ”ではなかったと思う。
大学に入って,シルクスクリィンを憶えたときにも版分けや色使いなど参考になったことが多い。プリントゴッコがなくなることで,こうした経験をする機会がなくなるだろう。IllustratorやPhotoshopではまだ経験できない事象だろう。別にアナログな方法が素晴らしいと言っているのではなく,経験される思考には価値があると思うということ。
版画は色の数だけ版が必要になる。別に色が多い方が良い作品だとか,版が多い方が素晴らしいという訳ではなく,一色一版刷りでも素晴らしい作品が沢山ある。同じ版木と絵の具を使ったのに作品の出来が違うという経験をしたことはないだろうか。同じ物はひとつとしてない。この一瞬が今しかないように。
浮世絵は,絵師が描いた絵を彫師が版木に起し,刷り師が刷るという工程を踏む。全ての工程を一流の職人が行なった作品は素晴らしい。一般的に初刷りは刷りが丁寧で,美しい。後刷りは版木の消耗や大量生産の都合もあって質が落ちる。情報の総量の差は少ないけれど,全くの別物だ。デジタル化できないコンテンツがあるということ。コピィは難しい。
現代ではオリジナリティという価値は曖昧だ。社会全体に流れる情報の総量が多く,そのどれもがコピィ可能だからだ。知らず知らずの裡に自分がコピィを使用している可能性は誰も否定できないし,オリジナルを証明することも難しい。
こうなると必ずしもオリジナルであることは価値がなくなってくる。情報だけコピィした模造品が出回ることになる。そうした現状に不安を感じる。感じたからといって,何ができるという訳ではないのだけれど。
問題は“情報=コンテンツ”ではないことだろう。だが,これも何れは技術的に解決されるだろう。











